古い手紙
この手紙は明治42年にMが外地から、わが祖父Iに送ったものである。
Mからの手紙は以下のとおりだ。
当然のことなんだけどね。常々年を感じます。
死ねばすべてから解放されるのだろうけど、生きていたら僕はずっと自発的に不幸になって行くでしょう。
僕はすべてが面倒です、日本に返ることも、家族と喋るのも、友人と喋るのも、働くことも。金のためのみにのみ働くことは、大多数の人にとって正しい行いなのでしょう。おそらくほとんどの社会適合者の大人は”労働の美徳”について語るでしょう。家族や友に会社や社会に悪口を吐いている輩も、会社のなかでは普通に平然と過ごしているのだろうと思います。ごく少数が自殺したり、病院に入院するのでしょう。彼らは不幸か幸福か?どちらと決めつけることはできないはずです。死ぬことですべてから逃げきれるのなら、それも悪くはない。入院して逃げきれるのなら、それも悪くない。逃げずに戦い続けた果てに、何があるのかは誰にもわからない。しかも、恐ろしい寿命というものは常に眼前にある。
”労働の美徳”を説く大人達は生きている人間です。彼らは彼らの経験からしか物事を語れない。ですから、僕のような小人に100%の助言を与えられる人間はいないはずです。もし、死んだ人間、百人にアンケートを取れば、”労働の美徳”について、正しい意見と傾向が知れるのでしょう。そして、それ事態が存在するのかも。しかし、誰も僕に助言をくれることはないでしょう。やはり死んだ人間も、一度しか人生を体験していないがゆえに、勝手なことしか言わないのは、生きている人間と同じです。だから僕は全てを自分で決めなければならない。しかし、それはけして、テーブルの上に全てのカードが置かれているわけでもない。少ないカードの中から一枚を選ぶことしかできない。それは、ずっとそうです。僕は僕という人間に選んでなったわけではないし、自分の容姿を選んだわけでもない。日本人を選択したわけでもない。学歴を選択したわけでもない。家柄を選択した訳でもない。
両親の性交のtimingを見計らって、生まれてきたわけでもない。
それは、全て事のなり行きでした。そしてそれは、全ての人間に共通する事でしょう。誰しもが大きな選択は自分自身ではできないはずです。まさに神のみ知るといったところです。
僕は神の存在を確信はできないけれど、人生の中には啓示が存在すると思っていました。啓示により自分はカードを選ぶのだと、その際は大きな人知を越えた力が働くのだと、しかしそうではなかったようです。
もはや、僕の目の前のテーブルには数少ないカードがおかれているだけのようです。二枚か三枚かそれはわからなくとも、一枚は確実に死です。今の僕はそのカードを選びたく思う気持ちも強くあり、反面絶対に選びたくないとさえ、思います。
ああ、僕はバカなことを書いている、低学歴で教養のない僕が、何を書いても駄文にすぎないのに。
いったい僕は誰に何を書いているのか?
僕は何であるのか?
体が自然と揺れて吐きけがする。震えが止まらず、心に何かが刺さり、裂ける音がする。
今が何年何月なのかにも信憑性が持てない。僕の横には幼い顔をした僕が居る。
彼が言う「お前のせいで、とんだつまらない人生を、送るはめになる」と。
僕は彼に謝ることしかできない。「僕は全てのカードを引き間違えた。もっといいカードを引くべきだったね」と.
僕はどうかしています。
実際に喋り行動する僕と、文章のなかに居る僕。
実際に見えて喋っている、僕は平然と嘘をつく。きっとこの文章をでたらめだと言う。
明治42年3月28日、異国の地から友へ。
最後に
私の曾祖父はなんと返事を書いたのか、私には分からないけれど、きっときのきいた返事は書けなかったであろう。彼には何を書いたって無駄なのだから。
何時の時代も苦労する人間にはなかなか、よい知らせが来ないものだ。
願わくば彼が幸せになったと思いたい。
そして、悩ましき子羊である、今を生きる我々も努力のはてに啓示があることを、祈るばかりである。
時がたっても変わらないことばかりだ、我々は何時だってにたような道をたどっている。
二〇/六/二一一八
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